こんにちは。
今回はカンボジアの現状を招いた歴史について触れてみたいと思います。
1960年台、当時の国王シアヌークは、国土保全とベトナム戦争に対する中立維持のため、カンプチア民族統一戦線の結成を宣言して、共産勢力クメール・ルージュとの協力を表明しました。この結果、カンボジアは右派親米政権と内戦状態に入ると共に、ベトナム戦争はカンボジア国内に拡大し、米軍がカンボジア内戦にも直接介入してきました。しかし、1975年にクメール・ルージュを中心としたカンプチア民族統一戦線がプノンペン入城を果たし、内戦は終了しました。
当時のロン・ノル政権が倒れポル・ポト政権が樹立されましたが、急進的な共産主義政策を断行したため、国内は再び大混乱となりました。ポル・ポト政権下では、首都周辺に住む人たちをすべて農村部に強制移住させ、完全国民農業従事を強制、農業従事に素直に従わない可能性の高い知識人、富裕層、教師、技術者、医者、僧侶の抹殺をはじめました。さらには、その家族、読み書きができる、メガネをかけているなど本来の範囲を超えた目的を失った虐殺が行われました。
そして、1989年以降のソ連崩壊・東西対立解消、中越関係改善等の国際環境改善を受けて、1990年のジャカルタ会議で、カンボジア4派によるカンボジア最高国民評議会のプノンペン設置案が合意されました。翌年10月に、パリ平和協定が締結され、内戦の終結と総選挙の実施が決定されました。1991年、シハヌークの帰国で、カンボジア最高国民評議会が発足、翌年3月に国連カンボジア暫定統治機構が誕生して、新政権樹立を支援するための活動を展開しました。そして、1993年5月に政権議会選挙が実施されました。9月には新憲法公布と約23年ぶりとなる統一政権によるシハヌーク国王を国家元首とする新生カンボジア王国が誕生し、平和・経済再建への歩みをはじめました。
しかし、経済発展を遂げている一方で広がる経済格差、貧困、高い非識字など、課題は山積みのままです。このような現状があるからこそ、まだ様々な支援がカンボジアには必要です。
以上15期のやくもでした。
Loading...